【もくじ】
■ハリウッドで異なるアプローチをして描く「Passing」映画 ― エリア・カザン『ピンキー』(Pinky,1949.)
1-1 黒人性を思い出す
1-2 払い切れない黒人性
1-3 黒人性を突き付けてくる祖母
1-4 新しいタイプの白人キャラクター登場
1-5「黒人」と見抜かれても動じない「白い黒人」
1-6 品行方正な白人男性の恋人と決別する白い黒人女性
1-7 白人性も黒人性も引き受けない「職業」にプライドを持つ白い黒人女性
※本記事は、エリア・カザンへの擁護でも批判でもない。あくまで、彼が映画という装置を通して、アメリカ社会に潜む差別をどのように描いたかという画像分析である。
1998年にアカデミー賞「名誉賞」を得た監督がいる。エリア・カザン。
…しかし、この受賞に対し、赤狩り時代(マッカーシズム:McCarthyism=1948年ごろより1950年代前半にかけて行われたアメリカにおける共産党員、および共産党シンパと見られる人々の排除の動き)の行動を批判する、一部の映画関係者や市民からブーイングが巻き起こる事件があった。
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その理由は1952年のこと、アメリカ下院非米活動委員会によって元共産党員であるカザンも、共産主義者の嫌疑がかけられた。カザンはこれを否定するため司法取引し、共産主義思想の疑いのある者として友人の劇作家・演出家・映画監督・俳優ら11人の名前を同委員会に表した。
その事件を引きづる者たち、ニック・ノルティ、エド・ハリス、イアン・マッケランらが、この1998年のアカデミー受賞式の瞬間も硬い表情で腕組みしながら、座ったまま無言の抗議を行なった姿が世界に映された。また、スティーヴン・スピルバーグ、ジム・キャリーらは拍手はしているが、スタンディングオベーションまでには至っていない。
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◇【経歴】エリア・カザンとはどんな人物?
カザンは、当時オスマン帝国の首都であったイスタンブールのギリシャ系の家庭に1909年9月7日に誕生。1910年代にギリシャ王国がオスマン帝国と戦争したため、ギリシャ人は住みづらくなっていた。カザンが4歳のとき、両親はアメリカ移住し、ニューヨークで絨毯(じゅうたん)の輸入販売を手がける。
のちにカザンは演出家を目指し、イェール大学などで演劇を学ぶことに。
映画監督としてのカザンは、1947年にユダヤ人問題を取り上げたハリウッド最初の映画『紳士協定』を監督し、アカデミー賞で作品賞、監督賞、助演女優賞を受賞。1951年にはヴィヴィアン・リーとマーロン・ブランド主演の映画『欲望という名の電車』を監督すると、アカデミー賞の4部門で受賞することに。この成功でハリウッド映画界において不動の地位を築いたのだ。
カザンは、ハリウッドでユダヤ人問題を取り上げるなど、マイノリティーに関する社会問題を提示する一方、マッカーシズムにおける「赤狩り」に翻弄されてきた監督でもある。
◇序章
さて、白人と黒人の混血を繰り返しにより、身体的には「白人」に見える「黒人」という「身体的白人性の強い黒人女性」、所謂「白い黒人女性」が描かれたカザン監督の『ピンキー』という映画を分析していきたい(注1)。
ハリウッドでユダヤ人問題を取り上げた『紳士協定』を監督するなど、マイノリティーに関する社会問題を提示していたり、マッカーシズムにおける「赤狩り」に翻弄されてきたエリア・カザンという監督については、 考慮しながら分析すべき人物に値するが、本稿においては割愛したい。本稿の目的は、画面空間がいかにして「黒人性・白人性」をつくり上げていくのかの証明である。そのため、映画『ピンキー』という作品を分析する際にも、画面に登場する「白い黒人女性」にのみ焦点を当てて画面分析していきたい。
また、アフリカ系アメリカ人の表記については、英語、日本語ともに多くの表記の仕方があり、「黒人」という単語の使用はさまざまな社会的、文化的コードがすでに含まれているが、本稿においては便宜上、「黒人」で統一し使用する。なお、文脈によっては「アフリカ系アメリカ人」を使用する場合もある。
◇「Passing」と「パッシング映画」とは
急進的な立場の見解からすると、「人種」は生物学的実体を持たず、社会的構造物によって生まれたものにすぎない。さらに文化人類学においては、「人種」という概念の無効性が一般化されている(注2) 。しかしながら「人種」をめぐる問題に対して、未だに社会的リアリティーが存在し続けているようだ。それはマイノリティーが、社会的権力を持つマジョリティーにパスするという行為からうかがうことができる。
「白い黒人女性」は、社会が突きつける「白人>黒人」と「男性>女性」というマイノリティーの中のマイノリティーの存在である。「白い黒人」にとって「passing」という行為が、カザンの映画ではどのように描かれているのか。そして、映画と現実社会の間にどのような相互関係を生み出しているのかを読み取っていきたい。
分析する前に「passing」とは、如何(いか)なるものなのかについて説明したい。
アメリカ文学・映画研究者の飯岡詩朗は、「passing」という行為を「ふり pretending」、「演技 acting」と「擬装 disguise」の3つに分類している (注3)。その「passing」とい行為は、アメリカ社会においてのみ、また黒人と白人の間に限ってのみ存在している訳ではない(注4) 。
例えば、アメリカ社会の人種問題をテーマとしたロバート・ベントン監督の『白いカラス』(The Human Stain, 2003)においては、青春時代の主人公であるコールマン・シルクは、身体的白人性の強い黒人であったため、黒人として生きて行くことよりはユダヤ人として、「passing」して生きていくことを選んだ (注5)。また、エリア・カザン監督の『紳士協定』(Gentleman's Agreement, 1947.)では、グレゴリー・ペック演じる記者フィリップがユダヤ人排斥運動の実態を暴くため、ユダヤ人に扮した。そのためには「自分はユダヤ教だ」とただ公言するだけでよかった。つまり、ユダヤ人であるか否かの視覚的区別は比較的不可能であり、ここでは民族的な「passing」が生み出されているのが分かる。
また、Sollors WernerはEverett Stonequistを引用し、「passing」が黒人と白人の間においてのみ生まれるのもではなく、国籍的、身分的、また階級的「passing」が存在することについて述べている(注6)。
Everett Stonequistは、ユダヤ人が非ユダヤ人にパスしていること、ポーランド人の移住者がドイツ人になりたがること、イタリア人がユダヤ人に装うこと、被差別部落の人々が差別を避けるために自らの集団アイデンティティーを隠すこと、インド生まれの英国人が英国人としてパスすること、また、カリブ人やラテンアメリカ人のような混血者が白人集団に溶け込むこと、中国系アメリカ人が日系アメリカ人としてパスすること、逆もまた同様であるような他の多くの事例を含め、多様な実例を例証している。
アメリカ合衆国では、白人から黒人にパスすることもまた存在している。例えばミュージシャンによって、異人種間結婚における白人の配偶者によって、アフリカ系アメリカ人に血縁関係のある白人兄妹によって、または、アファーマティブ・アクションを受けたい白人によって存在している(注7)。
また、「passing」は同民族同士の間でも見られる。例えば、朝鮮半島における脱北者問題が挙げられる。北朝鮮を脱出して韓国に入った脱北者は、外見上の違いを判断するには困難であるため、脱北者は素行をあえて公言したりはしない(注8)。そこからは、国籍的「passing」を垣間見みることができる。
さらに、マッチョな俳優として初めて同性愛者だと公言したハリウッドスター、ロック・ハドソンは、自身はホモセクシャルであるが『夜を楽しく』(Pillow Talk, 1959.)において、ヘテロセクセクシャルでありながら、ホモセクシャルのふりをして笑いを取る役を演じている(注9) 。それは彼が「役者」という職業者であることを考慮に入れても、ホモセクシャルの彼がマッチョのイメージで、ハリウッドのスターとして生きてきたことは多重な「passing」が存在しているだろう。逆もまた同様、現代社会において、ホモセクシャルの男性が活躍するファッション業界などのモード界においては、より待遇を得られるためヘテロセクシャルの男性が、ホモセクシャルのふりをすることはメディアで表象されてきている。これらに見られるように、ホモセクシャルに対する問題に対して、性的「passing」が生じることは明白である。
つまり、「passing」の行為とは、マイノリティーが、その社会のマジョリティーに合わせて、成り済ます行為のことを指している。しかしながら、その行為が意図的か否かは一概には断言できない。
ここまでは、いくつかの「passing」について概要してきた。では、本稿で取り上げる「白い黒人」に焦点を合わせていきたい。
◇ジム・クロウ法とは?
1876年から1964年にかけてアメリカ南部で存在した州法、ジム・クロウ法が敷かれていた時期に、白人だけが利用できる公共施設の中に、黒人の先祖を持つが視覚的には白い肌を持つ人物を、黒人だと見分けることはできるだろうか 。おそらく、その人物の素性を知らない限り、視覚的情報から黒人だと判断することはできないだろう。そのため、公民権運動が盛んになる1960年代まで、白人優位のアメリカ社会で「白い黒人」の中には、人権を尊重されて生きるための手段の一つとして「passing」をしてきたのである。
ジム・クロウ法とは、1876年から1964年までアメリカ合衆国南部で存在した州法であり、その内容は主に黒人の一般公共施設の利用を禁止制限した法律のことである。この対象となるのはアフリカ系黒人だけでなく、「黒人の血が混じっているものはすべて黒人とみなす」という「一滴規定(One-drop rule)」にもとづいており、黒人との混血者も対象となる。また、ネイティブ・アメリカンなどの白人以外の有色人種も含まれている。
では、「人種」という論理を破壊する可能性を持つ「白い黒人」の「passing」という行為が、映画の中ではどのように表象されているのかを明らかにしてきたい。
◇ハリウッドで異なるアプローチをして描く「Passing」映画 ― エリア・カザン『ピンキー』(Pinky,1949.)
ハリウッド映画でありながらも、従来のものとは異なる表象がされている「白い黒人女性」を分析する。そして、当時のアメリカ社会が突き付ける問題から離脱する、主体的な「白い黒人女性」の姿を検証していく。
1949年に20世紀フォックスから公開されたパッシングを描くエリア・カザン監督の『ピンキー』(Pinky,1949.)に登場する白い黒人は、同じように黒人性を拒み続ける白い黒人が登場するにもかかわらず、その白い黒人の結末は異なったアプローチで描かれている 。
『ピンキー』は当初、アイルランド系(白人)に思入れのあるジョン・フォードが監督していたが、帯状疱疹(発疹を伴う皮膚の神経性疾患)という(表向きの)理由によって、急遽エリア・カザンが務めることになった。フォードは黒人祖母ダイシー役のエセル・ウォーターズと互いに嫌い合っており、彼が監督を降りたのは、配役が原因ではないかとカザンは言及している。(エリア・カザン『エリア・カザン自伝 上』佐々田英則・村川英訳、朝日新聞社、1999年、514-518頁参照)
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映画『ピンキー』は「身体的黒人性の強い黒人」の祖母ダイシーを持つ、「白い黒人女性」ピンキーがパッシングを通して、自身のアイデンティティーを探る作品である(注10) 。
『ピンキー』が公開された当時のNewsweekは、『ピンキー』を「人種差別とピンキー個人の感情的な経歴に勇敢に立ち向かい、それらを融合した見事な作品である」と評し、The Daily Workerは「黒人問題に対する解決策は白人階級から解決されるものであり、またそれは、個人の善意によって受ける恩恵であって、組織や政治的戦略によるものではない」と酷評した(注11)。しかしながら、本稿においてはピンキーは、自身のルーツや社会が突き付ける白人性・黒人性という二項対立に囚われなく、「職業」を選択する自立した女性として描かれているということを証明していきたい。
まずは、その新しい「白い黒人女性」の描写がどうのようにされているのかを分析する前に、依然として今まで分析してきた映画に登場する「白い黒人女性」と似たような描写があることも確かめていきたい。
1-1 黒人性を思い出す
ピンキーは、アメリカ北部でパトリシアと名前を変え、看護学校を卒業し、白人として生活してきた。彼女は白人で医師のトーマスという恋人がいるが、トーマスはピンキーが黒人であることは知らない(後にピンキーから告白される)。物語は、ピンキーが祖母ダイシーの住む南部へ帰郷するところから始まる。
映画の冒頭は、ピンキーを乗せた蒸気機関車が汽笛を鳴らしながら、北部から南部へ向かう場面から始まる。白人にパスをして生活していた北部から、故郷である南部へ向かうこの汽車の描写は、ピンキーが白人から黒人に戻ることを意味している。その汽笛の音は物語のあらゆる場面で登場し、ピンキーに黒人性を思い起こさせるものとなっている。
ダイシーが暮らす家に帰ってきたピンキーを見て、ダイシーは半信半疑であったが、直ぐにピンキーだと分かり、喜びを確かめ合うように抱き合う。そして、ダイシーはピンキーを家の中へと招く。躊躇しながら家の中に入ったピンキーは、自分が育った家にも関わらず、まるで不潔なものでも見るかのような表情を浮かべる。しかし、直ぐに入口の前にある黒い背もたれの椅子を触ると、昔を思い出したかのように笑みを浮かべる。そして、白いテーブルクロスのかかったテーブルの縁(ふち)だけを指先で触る。白いテーブルクロスがテーブルのほとんどを占めるなか、その白さを避けるかのように黒い端だけを触っていることが分かる。さらに、ダイシーがピンキーの帰郷を喜ぶ中、ピンキーは棚の前に異動し、置いてある小さな黒いコップを右手で落ち、最後は黒いポットを両手で持ち上げる。
これらのシーンから、北部で白人にパスして生活していたピンキーが、帰郷して間もなく、黒い物を触ることで自らの黒人性を思い起こしていることがわかる。そして、観客も彼女に黒人性を見出(みいだ)していくことになる。
過去を懐かしみながら自身の黒人性を思い出したピンキーであったが、その黒人性が自分を脅かす恐怖の存在であることも徐々に思い出して行く。
1-2 払い切れない黒人性
帰郷したその日、眠りについたピンキー。その時再び汽笛の音が鳴る。彼女は、うなされながらボーイフレンドの名を呼び、飛び上がるように目を覚ます。
ピンキーの顔半分が影によって真っ暗に映し出され、残りの半分は明るく照らされている。この描写はピンキーの心の葛藤を映し、彼女が「白い黒人」であることを観客に認識させている。さらに汽笛の音は、ピンキー自身と観客に彼女が黒人であることを再確認させる効果がある。
そして明くる日、ピンキーと祖母ダイシーは、心臓病で寝込んでいる白人女性のミス・エムの話をする。ダイシーにとってミス・エムは友人であり、かつての主人でもある。
ピンキーは少女時代にミス・エムから受けた仕打ちを思い出す。彼女にとってその仕打ちは未だに忘れがたい出来事である。
そして再び汽笛の音が鳴る。汽笛の音と過去の忘れがたい出来事によって、ピンキーは自分が黒人であることをさらに思い知る。その裏腹で、彼女は北部にいる恋人トーマスに思いをはせる。
しかし、そのトムに対する思いは、突如目の前に立ちはだかる黒い柵によって絶ち消される。柵の反対側では白人が二人いる。その真っ黒な柵によって分断された空間は、ピンキーが黒人であることを示し、彼女が白人ではないことを表している。その直後に、「身体的黒人性の強い黒人の少女」が画面左側に登場する。その少女の服とピンキーの服は、ほとんど同じデザインである。ピンキーはその少女に自分の現在/過去を重ね、彼女に自己投影を行う。
ピンキーの黒人性は、この節で見てきたように自らの不安や脅威から形成され、演出されているのが分かる。しかし、それだけではなく、彼女は黒人の祖母ダイシーからもその黒人性を突きつけられるのである。
1-3 黒人性を突き付けてくる祖母
ピンキーは、メハリーメディカル大学で医学博士号を取得した黒人医師カナディーから、高校を卒業した何人かの(おそらく黒人の)女子学生に、きちんとした看護の訓練をしてほしいと依頼を受ける(注12) 。しかし、「南部に留まるつもりはない」と彼の申し出を断る。ピンキーを南部に留めたいダイシーは、後ろから二人の会話に聞き耳を立てる。そして、依頼を断られたドクター・カナディーが去ったあとに、ダイシーは軽蔑の眼差しでピンキーに視線を向ける。
ダイシーは「白い黒人」のピンキーに、無意識的に、意識的に黒人性を突きつけてくる存在なのである。
しかしながら、1949年に公開されたこのピンキーというキャラクターが、こまれでハリウッドで描かれていた「白い黒人」像と比べて新しい点は二つある。
一つは、黒人性を突き付けてくる祖母から逃げていないこと。ピンキーの両親が全く登場していないことから、彼女の起源を曖昧に、異人種混合を回避する類似点は今まで通りあるものの、祖母と孫娘という女性の問題へとすり替わることはない。
二つ目は、自分の職業に誇りを持っていること(下記でこれから紹介する)。つまり、(白人)男性の視線を意識しないキャラクターなのだ。
これまでの分析は、映画『ピンキー』に登場する「白い黒人」の描写が違うという証明であると同時に、「白い黒人」に付き纏う「黒人」の描写は変わらないことを浮き彫りにしている。この「黒人」は、「白い黒人」に白人と黒人の二項対立を植えつける厄介な人物である。そして皮肉にも、その「黒人」は当時のハリウッドにおける白人中心社会の餌食(えじき)にもなっている。それは次の場面からうかがえる。
『ピンキー』のラストシーンでは、ピンキーが設立した診療所、兼看護学校で働くダイシーについて、ある若い黒人看護師が「Every time I sterilize, she puts them back, says they ain’t white enough.(私が洗濯物を消毒殺菌しても、彼女はいつも『十分白くなっていない』と言って戻すのよ)」とピンキーに愚痴をこぼす。ピンキーに黒人性を突き付けてきたダイシーが、白さを求めるということは皮肉なことである。
つまり、『ピンキー』に登場する黒人祖母ダイシーは、ピンキーに黒人性を受け付ける存在であると同時に、やはり白人資本が占めるハリウッドの餌食になっている人物なのである。
ここまでの分析は、映画によって「白い黒人」が形作られ、問題点を残して描かれている部分を確認してきた。
しかしながら、それでも『ピンキー』には、新しいアプローチで描かれている登場人物を随所に確認することができる。その一つとして、新しいタイプの白人キャラクターである。『ピンキー』には超越された新しい「白人」のキャラクターが登場している。次節では、二人の「白人」を取り上げてそれを証明していきたい。
1-4 新しいタイプの白人キャラクター登場 ― ピンキーを個人として接する白人男性と白人女性
劇中でピンキーは祖母ダイシーから、心臓病で寝込んでいる白人女性ミス・エムの看護をするよう言いつけられる。ミス・エムに受けた仕打ちを忘れられないピンキーは、ダイシーの言いつけを初めは拒否する。その仕打ちというのは、ピンキーが少女時代に、ミス・エムの庭から閉め出されたことである(ダイシーは、大事な庭を荒らす子供を締め出すことは当然だと笑い飛ばすが、実際の理由は謎のままである)。しかし、ダイシーに、以前ミス・エムから受けた恩があると言われると、ピンキーは自分が看護学校を卒業するために働き、仕送りをしてくれたダイシーへの恩返しと思い、ミス・エムの看護を引き受ける。
ピンキーが初めてミス・エムの看病に訪れて、白人医師ジョーと対面する場面である。ジョーは、ピンキーが黒人ダイシーの孫娘だと知っている。彼は、「ピンキーだね。看護師の。」と彼女の顔を見て話しかける。
ピンキーの顔には黒い影が掛かり、彼女は暗く表象されている。しかし、このショット分析には注意が必要である。「彼女の白い肌を暗く表象することで、白人医師ジョーと観客にピンキーを黒人だと認識させる」という結論になる。しかし、ここではピンキーが自ら暗い影に否応(いやおう)なしに入っていることである。つまり、他人から見たピンキーの姿ではなく、ピンキーの内面を視覚化したシーンである。
「どうせ、あなたも私を黒人と見なすのでしょ」と、言わんばかりの彼女の被害妄想とも言える場面である。また、メタな内容として、ピンキー演じるジーン・クレインが、頭上をチラッと見上げ、影に入る位置を確かめる瞬間が映ってしまっている。つまり、自発的にピンキーが黒い影に入っていることがわかる。しかしながら、その後も、ピンキーがいくら強情な態度をとっても、ジョーのピンキーへの対応は全く変わることはなく、「看護師ピンキー」として接している。彼にとっては、ピンキーが白人に見えようが黒人に見えようが関係ないのである。
次に、「白人女性」による「白い黒人」への接し方を見てみよう。
「看護師は敬意も持って扱われるわ」と自分の職業を自負するピンキーに対して、白人女性ミス・エムは「偽っている人物に尊敬を受ける資格はない」と述べる。
自分が批判されたと感じたピンキーは、「あなたには関係のないことだ」と腹を立てミス・エムに言い返す。すると、ミス・エムは「そうね。あなたの夫にも、(将来の)子どもたちにも関係のないことよね」と淡々と述べる。
「be yourself(自分自身でありなさい)」というミス・エムの放った言葉に、ピンキーは抱き続けてきた彼女に対する不満や、白人/(白人中心の)社会への恨みを彼女にぶちまける。
「顔を黒く塗ればいいの? はたまた、へつらいながら卑屈に振る舞えばいいの?」などと、白人が望むステレオタイプ化された黒人像をピンキー自身が述べてしまう。そんなピンキーの話を黙って聞いていたミス・エムは、「誰もあんたのことを憎んじゃいないよ、ピンキー。」と、優しさと哀れみの交じった眼差しでピンキーを見つめる。
そしてミス・エムは、「Don’t just stand there. When you leave the room, go quickly.(そんなとこに立ってないで。さっさと出なさい。)」とピンキーを叱責する。その言葉を受けたピンキーは、ミス・エムの部屋から出で行く。
ここのミス・エムの台詞に注目したい。なぜ、「this room」でなく、定冠詞の「the room」なのか。この台詞には二つ意味が含まれている。一つ目は、文字通りピンキーに「部屋から出で行け」という意味である。実際ピンキーはミス・エムの部屋から出ていくからである。二つ目は、ピンキーが縛られている、「白人と黒人というステレオタイプ化された二項対立の『概念・空間(room)』から出て行け」という、ミス・エムの思いが含まれている。だから、「this room」ではなく、「the room」なのである。
また、ミス・エムが「Don’t just stand there. When you leave the room, go quickly.(そんなとこに立ってないで。さっさと出なさい。)」と言い終わった直後に、続けて「I hate dawdling.(ぐずは嫌いだよ)」と述べるころにはショットが切り替わっている。つまり、前文と後文をショットによって分けることで、ミス・エムの心情が違うことが読み取れる。ミス・エムが好む「the truth(本当のこと)」とは、ピンキーに「be yourself(自分自身でありなさい)」ということである。それは、「北部で白人のふりをするのをやめて黒人であることを認めなさい」ということではない。「身体的黒人性の強い黒人」の祖母を持っていようが、ピンキーの肌が「本当の白人」並みに白いという事実は否定できない。ミス・エムは、ただ「己を偽ることをやめて、黒人の祖母も、南部でのかつての暮らしも、白い肌も受け入れ、自分自身であれ」と言っているのである。決して、黒人にアイデンティティーを置けと言っている訳ではない。
さらにミス・エムは、「血縁」をも超えて、有能な看護師としてピンキーと接する。
ミス・エムは、ピンキーを遺産の相続人とした遺言書を残して亡くなる。一般に「遺産相続」というものは、「家族」に受け継がれるものである。そして「家族」という言葉には、「血縁関係」が少なからず付きまとう問題である。
しかし、ミス・エムは友人の孫であり、自分の看護師という言わば他人を遺産相続人にしているため、「血の繋がり」を重要視していないのである。つまり、家族という枠組みを超えている。「白い黒人」の問題は、「一滴でも黒人の血が入っていれば黒人になる」という「血」の問題に固執し続けているにも関わらす、ミス・エムは遥かに違う次元で物事を見ていることが、この遺産相続から読み取れる。
これらのことから、ミス・エムがピンキーを白人でも黒人でもなく、個人として接していると言える。そして映画『ピンキー』には、新しい白人が表象されて登場しているのが分かる。
次節からは、ハリウッドでは珍しく、新しいアプローチで描写されている「白い黒人像」を追っていきたい。
1-5「黒人」と見抜かれても動じない「白い黒人」
ミス・エムの葬儀に出席するため、ピンキーは白人専用の店へ「ベール」を買いに行く。ピンキーが店に入るシーン、彼女は入口で躊躇するかのように一度止まる。ピンキーの全身は、柱の影によって覆われ真っ暗に映し出される。そして、覚悟したかのように大きく一歩を踏み出し、店に入る。柱の陰から出てきたピンキーの顔は白く映り、堂々としている。
このシーンは、ピンキーがパスする瞬間である。しかし、彼女のパッシングは、私利私欲のためではない。確かに「ベールを手に入れる」という物質的な獲得のためではあるが、目的が違うことは明白である。
さらにピンキーは、白人にパスしたことを白人に暴かれても全く動じなく、気丈に振る舞うことである。
店内にいたミス・エムの従妹で、ピンキーが遺産相続人であることに嫌悪感を抱くミセス・ウーリーが、「いつからこの店は白人より先に黒人を対応するようになったんだ」と、店長(Mr.Goolby)と店員(MissViola)に喚(わめ)き散らす。
それを聞いた直後、店長と店員は驚きピンキーを凝視する。
ピンキーの顔には暗い影が落ちている。これは、店長と店員の視点である。この瞬間、彼らにとってピンキーは黒人になる。しかし、ピンキーは全く動じていない。
そしてミセス・ウーリーは、店員が持っているお金を指し「それは、何よ?」と言う。店員は、ピンキーから受け取ったお金だと説明する。すると、ミセス・ウーリーと店長、そして店員の三人は、疑うような視線でピンキーを見る。彼ら三人の視線である。
ピンキーの顔の半分は影に覆われている。これは彼らがピンキーに見る黒人性である。しかし、ピンキーがそれ程真っ暗に表象されていないのは、彼女自身には何も後ろめたさがないという表れでもある。ピンキーは、どんなに不当に扱われようが気丈に振る舞っている。
このように、パスしたことが白人に暴かれても、全く動じない「白い黒人」の姿は新しい。『ピンキー』に登場する「白い黒人像」が今までのハリウッド映画に登場する「白い黒人」の言動とは全く違うことが分かる。
そして、ピンキーは理解のある「(善き)白人男性」の恋人とも決別する人物なのである。
1-6 品行方正な白人男性の恋人と決別する白い黒人女性
『ピンキー』に登場する「白い黒人女性」の恋人は、非常に新しい人物像となっている。ハンサムな白人医師でピンキーのボーイフレンドであるトムは、彼女が「黒人」と知ってもなお、ピンキーを愛し続け、彼女のために自分を犠牲にする非常に進歩的な人物である。
しかし彼もまた、(本人に悪意は無いが)白人と黒人の二項対立から抜け出すことのできない人物である。本人の意図とは反するトムの言動が、結果としてピンキーを悩ませ、彼女が彼に別れを告げる結果となってしまう。
では、トムの人物像とピンキーが、彼と別れる結果となるまでを詳しく分析してきたい。そして、なぜピンキーは「完璧な」恋人を振るのか。
ピンキーがトムに、初めて自分には黒人の血が混じっていることを告げる場面である。それは、自分の祖母が黒人であることを遠回しに説明することで、彼に気づかせている。
ピンキーに黒人の祖母がいると告白されたトムは、彼女に近づく。そして、ピンキーの正面に立ち、顔を見つめる。ピンキーは、トムの影にすっぽりと入り、真っ暗に表象されている。ここで、注意しておきたいのは、トムがピンキーを「黒く」していることである。ピンキーは全く動いていない。つまりピンキーの黒さは、トムがピンキーに見る黒人性である。この瞬間、彼にとってピンキーは「黒人」になってしまっている。
しかしトムは、「(ピンキーに黒人の血が混ざっていることは)確かに社会的に重要な問題である」と正直に答えながらも、ピンキーと冷静に話し合う。
彼がピンキーの見方であることが分かる。そして、「自分は医者であり科学者であるから、人種に優劣が存在するといった神話を信じていない」と述べる。
ピンキーの告白を受けたトムは、それでも彼女を愛する。「白人にパスしていた黒人」と分かっても、その「白い黒人女性」を捨てない白人男性の登場は新しい。
しかしながら、ピンキーへの愛情とは裏腹に、トムは彼女にパスし続けることを(無意識に)押しつけてしまう。
彼は、「その事実は二人だけの秘密にしておけば上手くいく」とピンキーに話す。それは「今までどおり白人としてボストンで暮らそう」という意味であり、ピンキーのパスを助長し、押しつけていることに彼は気づいていない。
そして、ピンキーのために家族や生活基盤を置いていたボストンを捨て、デンバーへ移る決断をするなど、自分を犠牲にしながら常に彼女を支え続けてきたトムは映画のラストにピンキーから別れを告げられる。
ピンキーが(愛していながらも)トムに別れを告げる理由は、彼が「白人と黒人の二項対立」を常に突きつけてくるからでる。彼女は彼の前では、「白人にパスできる黒人」に過ぎないのである。それは、いくら自分を愛してくれていても、個人として接してくれた白人医師ジョーやミス・エムとは相反するものなのである。
そのためピンキーは、トムの前で自発的に黒人になりすます。
ミス・エムの遺産相続人がピンキーであることに不満があったミセス・ウーリーとの裁判に、ピンキーは勝訴する。そして、ミス・エムの遺言が嘘でなかったことを証明する。裁判を見守っていたトムは、遺言が嘘でないことが証明されたのだから、この町から出てデンバーで今まで通り二人で暮らそうと申し出る。トムの言う「今まで通り」というのは、「白人としてパスして生きる」ことを意味する。そのため、ピンキーはその申し出を断る。そして、彼女は彼を振り払い、ベッドの柱の陰に入るのだ。
ここで注目すべき点は、トムの影によってピンキーの肌が暗くされたのではなく、彼女が自ら暗い影に入って行くことである。白人性も黒人性も拒むピンキーが、トムの前で自ら柱の陰に入り黒人性を見せることは、白人と黒人の二項対立を持つトムにとっては、自分は「黒人」にすぎないことを見せつけているのである。
しかしながら、決してピンキーが黒人性を引き受けたわけではない。
その証拠にトムが部屋から去り、玄関の閉まる音を聞くと、彼女は暗い影から姿を現し、最後はいつものように白い肌が映し出されるからである。つまり、ピンキーは白人と黒人の二項対立を退ける人物なのである。
これらの分析から、ピンキーが白人性も黒人性も引き受けない人物であることが証明できる。また、自分が主導権を持つピンキーの姿が見て取れる。この「白い黒人女性」の姿は、1949年当時のハリウッドでは非常に珍しいことである。そしてこの女性は、プロフェッショナルとして「職業」の道を選択する人物でもある。
次節からは、職業人としてのピンキーの姿を確かめていく。
1-7 白人性も黒人性も引き受けない「職業」にプライドを持つ白い黒人女性
映画『ピンキー』が終始一貫してきたことは、看護師という職業に誇りを持つ「白く黒人女性」の姿である。
ピンキーがミス・エムを看護するために、初めて屋敷へ訪れる場面である。ピンキーは、ミス・エムの家まで二手に分かれている道の右側を選ぶ。しかし、何かを思い立ち足を止める。そして、来た道を戻り左側の道を選び直す。
このシーンは、ピンキーが迷子になっている訳ではない。左側の道は、ミス・エムの屋敷の正面玄関につながっていたのである。そして、ピンキーは堂々と正面玄関から屋敷へ入る。看護師としてミス・エムの家に赴いたピンキーは、メイドのように裏口から入る必要はないのである。これらのショットは、ピンキーが自分の職業に誇りと自信を持っていることを表している。
そして、ミス・エムの部屋まで来たピンキーは、ドクター・ジョーと会い、彼にあとのことを任される。
ピンキーはミス・エムが起きるまで眠ってしまう。目覚めたミス・エムは、真っ黒なコートに白い顔をうずめて、椅子の上で眠る女性を見つける。ピンキーも目覚め、ミス・エムが起きたことに気がつく。ピンキーは自分を凝視するミス・エムの視線に、嫌悪の情を抱く。ピンキーはおそらく、過去の苦い経験を思い出したに違いない。そして彼女は、すぐさま身体を覆っていた黒いコートを掃う。掃ったコートの下からは、真っ白な看護師の服が現れる。
このシーンは、ピンキーが自発的に「Passing」する瞬間である。少女時代にミス・エムから受けた仕打ちを忘れられないピンキーは、自分がミス・エムからどう見られるか気にしている。そして、黒いコートを掃ったピンキーは、真っ白な制服と白い肌を持つ自分をミス・エムに見せつけるかのように立ち上がるのである。
他人の視線を気にしてパスするピンキーの姿は、「白い黒人」の黒人性が生み出されているのが分かる。しかしながら、それでも注意しなければならいことがある。
ピンキーのパッシングは、看護師という職業人としての視線を他者から求めている。当初、ピンキーは椅子にもたれかかり、怯えたような表情をする受け身の姿勢であるのに対して、その後のピンキーは、胸を張って立ち上がり、表情は凛々しい。
これは、決意の場面である。
ミス・エムから「誰だ」と尋ねられたピンキーは、名前を告げずにただ「あなたの看護師です」と述べる。そして、この台詞からは彼女が自ら決断していることが分かる。そこには、過去に苦しむピンキーの姿は何処にもない。
最後に上述とは少し違う方法で、白人性も黒人性の引き受けず職業を選択するピンキーの姿をテキスト分析していきたい。
写真左は、ピンキーが初めてミス・エムの家に行き、彼女の看護を終えた場面である。ミス・エムに恨みを持つピンキーは指図してくるミス・エムに大きな声を出してしまうが、その直後ミス・エムは気を失ってしまう。何の躊躇いもなく、即座にミス・エムに処置を行うピンキーの姿から、彼女が看護師としてのプライドを持っていることが分かる。
しかし、このときのピンキーは、まだ自身のアイデンティティーを悩んでいるため、処置を終えた後、光沢のある真っ黒のベットの柱に寄り掛かる彼女の背後で、再び汽笛の音が鳴る。この汽笛と黒い柱が、彼女の黒人性を表していることが分かる。
右の写真は、前節で取り上げた映画の後半、恋人トムの前でピンキーが「黒人になりすます」場面である。真っ黒な柱は、白人のトムとピンキーを隔て、さらに彼女が「黒人になりすます」ことを手助けしている。この黒い柱は、映画の冒頭から終盤まで常にピンキーの黒人性を演出し、彼女にべったりと付き添っている。
一方で、映画の一番最後のシーンでピンキーが抱える柱は、「真っ黒」くもなく「真っ白」でもない。
この柱は、ピンキーがミス・エムから相続した家を診療所、兼看護学校にした所の前に建ち、ベルを支えているものである。「黒く」もなく「白く」もない柱をピンキーが抱きかかえることは、彼女が「黒人性」も「白人性」も引き受けていないことが読み取れる。そして映画ラストは、決断した表情で空を見上げるピンキーが、看護師という職業の道を選択したことが分かる。
このように『ピンキー』には、白人も黒人も引き受けない職業を選ぶ「白い黒人女性」が登場していることは、当時のハリウッドでは非常に新しく評価できる点である。
それでも映画学者ドナルド・ボーグルは、「この映画の最大の屈服は、白人女優のジーン・クレインによって主人公が演じられていることである」と述べており、「映画『ピンキー』も今まで白人俳優によって黒人役が演じられていた他の作品のように、観客が映画の登場人物に同一化するための映画産業の一つの典型的な方法にすぎない」と批判している(注13)。
しかし、「映画」というものはどの俳優が演じていても、「白い黒人」の黒人性や白人性は、画面空間や演出によって描かれ、観客もまた操作されてしまうものである。
映画『ピンキー』は、社会が突き付けてくる白人と黒人の二項対立する壁を崩した映画である。そして、「白い黒人女性」ピンキーの表象は、1949年当時のアメリカ社会では珍しく、白人も黒人も引き受けず職業を自ら選択する主体的な「白い黒人女性」として描かれている。
ピンキーは、現実社会/アメリカ社会が突き付けてくる「人種」という論理に対して転覆的な可能性を持つ「白い黒人」のパッシングという行為を退けることで、その「論理」を破壊しているのである。
◇終わりに
本稿の分析は、製作者側のキャスティングにおけるポリティクスへの擁護ではない。やはり、ジム・クロウ法の理念を代弁するかのように「黒人の血」に対する嫌悪感と、アメリカ映画が偏った表象で「黒人」を排除してきた事実は否めない。本稿で分析したように、細部にわたった手法を使い、これだけのことをしないと白い黒人問題は描けないのである。つまり、差別の問題である。
ただ、ドナルド・ボーグルの『境界の消滅』と『ピンキー』への主な批判は、「白い黒人」を白人俳優が演じているというパフォーマティブなレベルに集中している。本稿は「映画」というものが、どのようにして「黒人」をつくり上げてきたかの証明であり、アプローチの仕方が異なる。しかし、「現実の世界」をないがしろにしているさけではない。
「映画は白人俳優をも、黒人に見せることができるものである」と本稿では証明してきた。それが映画の凄さであり、面白さとも言えよう。しかし、その欺瞞(ぎまん)の重なりから、現実社会に通ずる本質も見えてくる。大衆文化/娯楽であるアメリカ映画の表象が現実社会へ影を落とし、現実の問題が映画にも組み込まれるのである。それゆえ映画の表象と現実の問題は、密接な相互関係が生じている。
それは、社会が文字通り「白黒」つけたがることである。そして、その標的は特に「白い黒人女性」というマイノリティーの中のマイノリティーに顕著にみられた。映画と社会が意味の上で、「黒人」を生み出してきたのである。
しかし、映画『ピンキー』で観られたように、現実社会/アメリカ社会が突きつけてくる「人種」という論理や、社会のヒエラルキーに対して転覆的な可能性を持つ脅威の「白い黒人」が「Passing」という行為を退けることで、その「論理」を破壊したことは「パッシング映画」を改変し、社会問題に改革を提起したと言えよう。そして、「黒人/白い黒人」が社会的構築物にすぎないことを証明したと言えるのでないだろうか。
《注釈》
- アフリカ系アメリカ人の表記については英語、日本語ともに多くの表記の仕方があり、「黒人」という単語の使用はさまざまな社会的、文化的コードがすでに含まれているが、本稿においては便宜上、「黒人」で統一し使用する。なお、文脈によっては「アフリカ系アメリカ人」を使用する場合もある。
- 坂野 徹『帝国日本と人類学者 一八八四-一九五二年』勁草書房、2005年参考。
- 飯岡詩朗「パッシング映画とはなにか 「白い黒人」によるアメリカ映画史」立教アメリカン・スタディーズ第21号、1999年。
- 本稿の表記について、便宜上「Passing」も「パッシング」も同意語とする。また、「ふり pretending」、「演技 acting」と「擬装 disguise」の三つの意味合いを含むことに重点を置いた文脈においては、「Passing」と表記する場合もある。
- 青春時代のコールマン・シルクを演じた俳優ウェントワース・ミラーは、実際にアフリカ系の血縁と、ユダヤ系の血縁を持つ人物である。
- Sollors, Werner. “Passing; or, Sacrficing a Parvenu.” Neither Black nor White Yet Both: Thematic Explorations of Interracial Literature. Oxford and New York: Oxford University Press, 1997.
- 英文表記となっている当該部分は、本稿においては佐藤訳に変更している。
- 「南へ脱北したけれど 2万人 就職難・偏見に苦悩」『朝日新聞』2010年11月20日。
- ハリウッドの映画史において、性的マイノリティーの表象を分析したドキュメンタリー映画『セルロイド・クローゼット』(The Celluloid Closet, 1996.)からも、性的「Passing」がうかがえる。
- 「白い黒人」ピンキーを演じるジーン・クレイン(Jeanne Crain)は、イギリス系とフランス系を先祖に持つ父親とアイルランド系を先祖に持つ母親を持っているため、いわゆる「白人」である。
- Bogle,Donald. Toms,Coons,Mulattoes,Mammies, and Blacks: An Interpretive History of Blacks in American Films. New 3rded. New York: Continuum, 1994,151.を参照。
- 1876年からアメリカ合衆国テネシー州に実際に存在するアフリカ系アメリカ人向けのメディカルスクールである。
- Bogle, p.150-154.を参照。
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August 09, 2020 at 09:12AM
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エリア・カザン監督映画『ピンキー』を読み解く ― ハリウッドに裏切り者と呼ばれた男が描く #Black Lives Matter - Esquire
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